文化的な生活

本のこと、音楽のこと、日常のこと。

行儀よくしろ。/ 清水義範

 清水義範氏の教育論。大好きな作家さんです。彼の小説も好きですが、教育の話も非常に温和な語り口で問題を提示するスタイルが気に入っています。 
行儀よくしろ。 (ちくま新書)

行儀よくしろ。 (ちくま新書)

 

 

 学校教育を語っているわけではありません。論調としては、学校教育にすべてを任せてはならない。私たち大人がつくり上げる社会が、文化が子供を教育するのだ。という話です。
 
 このことに関しては大いに賛成です。私の体験も交えながら話したいと思いましたが、基本的に本の感想を書く際は自分のことを多く語りたくはないので、別の記事に回します。印象的な表現を挙げながら、概要を話します。まず清水氏は、世間の『若者の学力低下』という風潮に対して議論を展開していきます。(非常に偏向的なデータではあるのものの) 学力は少し低下しているかもしれない、と認めた上で、疑問を投げかけます。
 
あなたは、学力ってものを知力のことだと思っているんじゃないですか?
学力が昔よりちょっと低下したのだとしても、それ以外において何らかの力を得て、総合的な知力が向上しているというケースだって考えられなくはないのだ。
 清水氏は、こどもたちに語りかけるようにテスト至上主義を緩く批判します。そんなことはどうでもよくて、テストの点以外の教育はどうなってるか考えていきましょうと提案します。
 
教育について論じるとなると、もっぱら学校批判だけしてしまう、というのはおかしいのではないかと思うのだ。〜日本では、学校とは子供を良い存在に導き、人生の幸せをもたらしてくれるところと考えられているかのごとくだ。学校が教育のすべてを、間違いなくやってくれるべきだ、とみんな考えているらしいのである。
 学校は学業を教えるところで、それ以外の教育は、学校の役目ではない、と述べます。そして、
 
私が考えたいのは、私たち日本人はどういう社会を作り上げていて、それによって子どもたちにどういう教育をしてしまっているか、ということだ。
 と本論に入ります。
 
私がここで言いたいことは、社会のありようが我々に教育を施してくることに、ちゃんと気がついていましょう、ということだ。皆がそれに気がついていれば、程良い制御が自然に働くはずなのだから。
 では、どういう社会のあり方が、良い教育に繋がるのか? その一つの指標として、国それぞれの文化が継承され、守られており、そこに根ざした生活規範があれば良いのだとしています。その後、日本の文化とは何か? 変化してきた文化の中には、現代社会に適応して改善されたものと、崩れてしまったものがあるはずだ…と文化についての論理を展開します。
 
そして最後に
 
我々はたまたま日本人だから、日本の文化の中にあって美しく見える行き方をしていれば、大いに自分を誇っていいのである。
日本文化における行儀の良さを身につけている。
自分の仕事に真面目に、熱心に取り組んでいる。
卑怯でなく、いさぎよく、逃げない。
人との約束は守る。
困っている人がいれば手を貸す。
インチキをせず、いつも正直だ。
ちゃんと自分の責任は果たす。
人に迷惑をかけないようにし、人の役に立つことは可能な限りする。
そういう人間は美しいではないか。そういう美しさを持った人は、大いに自負を持って生きるべきなのだ。
と語ります。
大人が、古くからある日本人の美徳に従って生きていれば、良い社会ができます。その良い社会が、豊かな子供たちを育むのです。ということです。
 
 彼の教育論はいつも穏やかで、誰を悪者にするでもなく、責任転嫁するわけでもなく、非常に好感が持てます。私はどちらかと言うと、上のような美徳を守るのが一番いいんだよ、と両親に言われて育ちました。弁護士でもお医者さんでも、トラックの運転手でもレストランの給仕さんでもなんになってもいいから、1人の人間としてまっとうに生きなさい、と言われて育ちました。だからなおさら共感できるところがあるかもしれません。忙しさ、競争の激しさを言い訳に、両親の教えを忘れかけていたかもしれません。私は今でも、周りからは馬鹿らしいように思えたとしても、上記のような振る舞いが、幸せへの道だと信じています。それを再確認できました。
 
最後に、清水氏が本書で最も大事だと言っていることを引用して終わります。
 

それは、すべての子供たちに、自分は価値ある人間なんだと教えよう、ということだ。きみはきみであることに誇りを持っていいんだ、と伝えよう。

 

読書感想文を小学生に課す意義

 以前、私の読書歴について書きました。その中で、読書感想文の話が出てきたので、読書感想文について少しだけ書きます。
 
 私は、小学校教育における読書感想文に関してはあまり課すべきではないと思っています。というよりは、小学生に読書感想文を書かせるのはまだ早すぎると思っています。理由としては、読書感想文とは何か、明確な定義を与えず、生徒もどのように書けばいいのかわからないまま書かせることが多いためです。
 
 きっと、夏休み前の最後の登校日に、好きな本を読んできて感想を書いてきてください、という程度のことを言われているだけだと思うのです。私が先生の話をよくきいていなかっただけでしょうか?少なくとも、しっかりと時間を取って、感想文の書き方をレクチャーされた覚えはありません。正直、それだけだったら、
 
題名: 桃太郎を読んで
          おもしろかった
 
これだけでもその条件は充分満たしています。それでなぜか怒られるのです。算数の宿題だったら簡単です。1+1=2です。悩みどころがない。だけれども、読書感想文に関しては、問題の意図するところが明確になっていない。
 
 まずは、なぜ読書感想文を書くのか、どのように書いて欲しいのか、そのことをしっかり伝えないと意味が無いです。たとえば、皆に同じ本を読ませて、おもしろかった一文を抜き出させて、どんなふうに面白かったか、どうして面白かったか、それを書いてきてもらう。きちんと授業時間を割いて、先生がまずはお手本を見せてあげる。そこまで書くことがわかっていれば、喜んで書いてくると思います。
 
 私は現在小学校教育に携わるような仕事はしていません。私の経験でしかありません。現在はいろいろなところが改善されているのかもしれません。私の記憶を思い返すと、読書感想文を書かせてどうしたかったのか、生徒にどんな能力を身につけさせようとしたのか、そのようなことをしっかり考えて読書感想文を課していた先生はいなかったように思います。
 
 これを読んでいる、教職についておられる方がいたら、読書感想文を課す前に、読書の仕方をまずは教えてあげてください。感想文の書き方を教えてあげてください。しっかりと、授業時間を割いてレクチャーしてください。自分が感じたことを表現することは難しくて、読書感想文を書くことはその良い訓練になるのだと伝えて下さい。
 
低年次教育の質が人生を大きく方向づけると思っています。

私の読書歴ー読書が嫌いな人々、読書の習慣を付けたい人々へ

 いつごろから本を読むようになったのだろうと考えてみます。
 
 大学時代に宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』にいたく感動し、それ以降多くの本を読むようになったのです。そういう意味では、『銀河鉄道の夜』は人生のターニングポイントとなる作品でした。しかしそれまでは、読書歴と呼べるようなものは無かったと思います。
新編 銀河鉄道の夜 (新潮文庫)

新編 銀河鉄道の夜 (新潮文庫)

 

 

 私が小学生のとき、本を読んだ記憶はほとんどありません。漫画はよく読んでいましたが、小説となると10冊も読んでいないでしょう。その10冊というのも、学校側から与えられた課題のために読んだようなものです。学校の課題というのは、一つは夏休みの読書感想文のようなもの。そしてもう一つは、「読書の時間」として設けられた時間中に読んだ本です。
 
 読書感想文については、それだけでいつか記事を書こうと思います。ここでは、「読書感想文を書く」という行為に関する是非には触れず、私が読書感想文を書くために読んだ本を思い出してみます。ぼんやりと思い出せるのは、夏休みに大木の上に秘密基地をつくる、といった話だったと思います。ほぼ毎年書いていたはずなのに、この一冊しか思い出せない。この一冊に関しても、タイトルを思い出せない。何を書いたかなんて、到底思い出せません。
 
 どうしてこの本だけ覚えているのか、その理由だけはハッキリと覚えています。この本の感想文を読んだ年に、母が、読書感想文の書き方について書いてある、小学生向けの本を買ってきてくれたのです。
 
 読書感想文はとても難しいもの。
 「おもしろかった」ではなくて、「OOだからおもしろかった」と書くようにする。
 筆者に反抗してみる。「OOはよくわからなかった、それは違うと思った」ということも書いていい。
のような事が書いてあったと思います。今思い返すと、批評の基本事項をわかりやすく書いた、非常に良い本だったと感じます。私の人格形成にも大きく影響を与えた本かもしれません。この年の読書感想文は、賞こそ取れませんでしたが、去年までの私と比べると見違えるほどよく書けた記憶があります。
 
 「読書の時間」として設けられた時間には、小学校2~3年生の頃には、「王様シリーズ」を読んでいました。でもやっぱり、与えられた時間内は読んで、それなりに楽しいのだけれども、外で遊ぶほうが好きでしたね。小学校も高学年になると、なんだか王様シリーズを読むのも恥ずかしい気がして、別の本を読んでいたように思います。しかし、何を読んでいたのか、全く思い出せません。王様シリーズを読み続けていれば、もう少し早い段階で読書の面白さに気づいたのかもしれません。 
ぼくは王さま (フォア文庫 (A008))

ぼくは王さま (フォア文庫 (A008))

 

 

 中学生に上がると、もっと本は読まなくなりました。文章を読むのも書くのも嫌いでした。母が買ってきてくれた『ハリーポッター』は、50ページくらいでやめてしまいました。ライトノベルの前身のようなものができつつあって、友人が一生懸命読んでいたのを覚えています。友人が何人かでその本について面白そうに話しているのに、私は1ページも読みませんでした。それくらい、本を読むことが嫌いになっていた時期かもしれません。小学生の頃の、本を読まされた経験が、私を読書から遠ざけていました。他の理由として、ロックミュージックに傾倒していた時期だったということもあります。このころの私の関心は、クラスの女の子のこと、ギターの音、毎週のジャンプ、宿題をいかに楽に乗り切るか、それくらいでした。今でも大した違いははありませんが。
 
 高校に入学すると、私の本嫌いは少し緩和されます。国語の先生が非常に面白い授業をする先生だったことも一因だと思います。しかしながら、高校時代に読んだ本も、10冊に満たないと思います。高校以前に比べると、記憶が新しいせいか、読んだ本はいくらか覚えています。村上春樹氏の『ノルウェイの森』を読みました。上下巻一気に通して読んだと思います。非常に面白く読めた記憶があります。堀江敏幸氏の『雪沼とその周辺』を読みました。衰退していく街で、死について考える人々。静かな世界観が好きでした。この両者の作品は他にもいくつか読みましたが、読書が習慣となることはありませんでした。途中で読まなくなる作品のほうが多かったですね。
雪沼とその周辺 (新潮文庫)

雪沼とその周辺 (新潮文庫)

 

 

 そして、冒頭でも述べたように、大学に入ったばかりの頃、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』にいたく感動します。余暇の多い時期ということもあり、本を読んでみようと言う気になりました。最初は様々なジャンルに手を出してみました。ミステリー、時代小説、ファンタジー、ノンフィクション、哲学、科学、社会、思想…とにかく、途中でやめてもいいから、数をこなしました。その後、私は日本語の美しいもの、世界観の美しいものを好むということがわかってきました。逆に、推理小説や時代小説にはあまり興味を惹かれないことがわかりました。さらに、これまで読むのを挫折してきた本というのは、ファンタジーであったり推理小説であったり、非常にカタイ訳をされた本であったりしたこともわかってきました。ああ、私は読書嫌いではなかったのだ。私に適切な本に出会ってこなかっただけなのだと思いました。そして一年ほどたった後、安部公房の『砂の女』に出会い、読書とはかけがえのない、なにものにも代替不可能な経験であると思うまでに至りました。
 
砂の女 (新潮文庫)

砂の女 (新潮文庫)

 

 

 読書をしても、途中でやめてしまう、つまらなくなってしまう、でも本は読んでいたほうがいいと皆言うし…と思っておられる方は多いと思います。いくら途中でやめてもいいから、とにかく色んな本を読んでみたほうがいい、というのが私の考えです。50ページくらい読んでみて、面白くなかったらやめてもいい。いつかきっと、寝る間も惜しんで先を読みたくなる本に出会えるはずです。私の読書歴を振り返ってみて、そのように思います。

幸せの条件/ 誉田哲也

全体通してネタバレはほとんどしていないつもりです。
 
 誉田哲也氏の作品はコレがはじめて
ミステリーや高校生の青春小説を多く書いておられるようですが、いずれもそんなに好きなジャンルではないので、まずは自分が読みやすそうな作品から、ということでコレをチョイス。

 

幸せの条件 (中公文庫)

幸せの条件 (中公文庫)

 

 ガラス器具を扱う会社に務める主人公の梢恵。落ちこぼれの理学部生だったおかげで専門的な仕事はほとんどできず、事務や会計の仕事ばかり。仕事は面白くないし、恋人ともなんだかうまくいかない。そんなとき、社長の片山の急な思いつきから、長野まで単身商品の営業に行くことに。バイオエタノールのためのコメをうえてもらってこい!案件が取れるまで東京に帰ってくるな!全く案件が取れず、ついに梢恵自身が農業をやることに!どうなる梢恵!と言ったお話。

 
 以下読書感想文
 
 私は農業のことに詳しくないので嘘かホントかは判断できないが、農業のプロセス、農家の抱える問題、そのようなことが非常にわかりやすく書いてあり、農業初心者梢恵とともに疑似体験できる。もちろん農業の知識だけでなく、農業に携わる登場人物たちの人間模様もいきいきと書かれいる。登場人物たちはそれぞれみんな一癖あり、あたたかい。
 
 「職場があって、パートナーがいて、自分の子供をこの環境で育てられて、それの一体、何が不満なんだ君は。え? いってみろよ。何が不満なんだ。私にいってみろ。私が納得いく説明をしてごらん。」
全力だから、時には怒りをぶつけあうこともある。非常に良いシーンで、不覚にも涙が…
 
 全体として、農業の疑似体験としても秀逸、登場人物のキャラクターも非常に良いと感じた作品だったが、いくつか気に入らなかった点がある。一つは、東北の震災に関する記述だ。
 
 作中で震災が起こる。そのことについて、いろいろと書いてあるのだが、正直不要だと思った。物語中の人物が実際の震災を体験して、何かしら感じたり、思ったり、ということが書かれているのに対し嫌悪感に近いものを持った。もちろん、震災で農家に大きな被害があったということは理解できる。しかしながら、それを書くなら、ノンフィクションで、ドキュメンタリーでやらないと。気持ち悪さを感じるのは私だけではなかろう。
 
 また、もう一つの好きではなかった点は梢恵のキャラクターに関してだ。震災を通じて農業に対する考えを変えたり、もちろん前向きに成長したということなのだろうが、恋人や親族に対して急に態度が変わったりしていて、そのへんも少し引っかかる部分だった。極論を言えば、ただのわがまま娘じゃないか、という感情を禁じ得ない部分があった。
 
 以上二点はちょっとどうかなと思う部分であったが、先に書いたように全体を通しては、農業の疑似体験と農業を取り巻く人間模様がよくかけていて、読んでいて楽しい作品ではあった。

弁護士が教える!人生を成功に導く質問力/ 谷原誠

kindleですごく安かったので買って、ざっと読んでみました。
弁護士が教える!人生を成功に導く質問力 質問を制するものが会話の支配者となる

弁護士が教える!人生を成功に導く質問力 質問を制するものが会話の支配者となる

 

 基本的に当たり前なことが書いています。決して悪い意味ではなく、当たり前だけど非常に大事で、頭に入れていれば役に立つかも、といったようなこと。例えば

 
・質問をする環境を作るには、「相手との共通点を探す」のが近道です。
・刑事の尋問のように、たて続けに質問しない 〜 相手が答えてくれたら、こちらも何らかの情報をオープンにすると良いでしょう
といったような、そりゃそうだよなあ、と思うことがかかれているわけだけども、実践できているか考えるとなかなか自信がない。
 
全体を通して主張されていることは、質問をすることで相手を不快にしては意味が無く、信頼関係を築くために質問する、ということです。この考え方はなかなか良いのではないかと感じました。
 
後半では、議論に負けないための質問テクニック、ということが書かれています。私は議論を勝ち負けとしてしまうのは間違っていると思うのですが、筆者もその点は私と同様の考えのようで、あくまで議論は良い解決方法にたどり着くためにやることであると明言しています。筆者は、
 
・議論に負けないことの最終目的は、あなたの要求を通すということです。
と定義しています。そして、
・どんな状況においても議論で絶対に負けない唯一の方法は、あなたが「常に質問する立場に回る」ことです。
としています。
 
質問者は常に攻める側である、ということです。これは確かにその通りです。例えば会議なんかで、プレゼンテーションする側は明らかに攻撃される側で、質問する側は変なところがないか、理論が破綻していないか、嘘がないか、注意深く聞き、質問します。
 
日常レベルの議論であっても、たとえば何かしらのルールを決めると考えましょう。ゴミ出しを妻がやるか夫がやるか、どのように分担するか位に考えて良いと思います。自分はA案が良いと思う、相手はB案がいいと主張している。このときに、自分が質問している限りは主導権は自分にあります。
「どうしてB案がいいと思うの?」
「でもその理屈はOOだから違うのでは?」
「そういうならOOのほうが理にかなってない?」
などなど…
極論、相手が全く質問してこなければ、自分の主張は100%通ると言ってもいいかもしれません。
もちろん、通常こちらの質問があらかた済んだあと、相手は
「じゃあどうしてA案がいいと思うの?」
のような質問をしてくるわけですが、質問しているときは主導権はこちらにある、ということは間違いないでしょう。
 
議論においてどうしても自分の案を通したいとき、相手より多く質問をする、ということに気をつけるのもいいのかもしれません。